台湾で「神様」になった日本人・小林三武郎氏の数奇な運命
日本統治時代に台湾人のために尽力した日本人が、のちに「土地神様」として祀られたという話をご存知でしょうか? 今回、台湾出身の評論家・黄文雄さんが自身のメルマガ『黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』の中で、最近判明した、台湾で「神様」として祀られている小林三武郎という巡査について詳しく紹介しています。
【台湾】埋もれた歴史を発掘!! 台湾で神様になった日本人はまだいた
日本統治時代に台湾人のために尽力した日本人が、後に土地神様として祀られたという話はいくつかあります。拙著『日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか』(徳間書店刊)でも、そうした日本人を紹介しています。
日本人は、魏志倭人伝の昔から、逆境でも不平不満を言わない、盗みを嫌う、名誉に命をかける、貧しくとも高貴である、災害や不幸に負けずまたたくうちに復興する…といった美徳を持っています。そうした美徳を具現化した人物も、歴史上には数多く存在します。第二次大戦中、ナチスの脅威からユダヤ人たちを救った杉原千畝などは、その代表例として書籍化、ドラマ化などで広く知られています。
日本統治時代の台湾でも、そうした日本人たちは各地で活躍し、台湾人のために自分を犠牲にした人々は多くいました。中でも、公職として台湾各地に赴任した日本人の美談は比較的多く残っています。
日本が接収した当初の台湾人の生活は、実に原始的でした。農村、漁村の人々が文字が読めないのはもちろん、言語も統一されていないため、地域間の意思疎通ができず、産業は未発達でした。
しかも台湾は「瘴癘の地」として伝染病・風土病が蔓延し、旱魃や洪水などの天災も多く、また、蕃族による首狩りも跋扈しており、平地の台湾人もその脅威に怯え、貧しく暮らしていました。
清はそのような台湾を「化外の地」(文明の及ばない地)と呼び、「十去、六死、三留、一回頭」(10人が台湾に行こうとすれば6人は死に、3人だけが留まり、1人は逃げて帰る)といって、決して行きたくない場所だと考えていたのです。
1874年の台湾出兵にしても、約3,6000人の日本軍のうち、戦闘での死者がわずか12人だった一方、マラリアなどでの病死者は561人にも及びました。それほど、日本統治以前の台湾は、危険な地域でもあったのです。
1896年、日清戦争に勝利した日本に台湾が割譲され、多くの日本人警察官が治安維持のために派遣されましたが、彼らの多くは村人たちの現状に同情し、正義感を持って真摯に対応し、自己を犠牲にしてまでも村人たちの生活を守ろうとしました。
その代表として台湾でもよく知られているのは、森川清治郎巡査です。現在の嘉義県の村に赴任した森川巡査は、半農半漁の貧しい生活を送っている村人に対し、私財を投じて文字を教え、怪我した村人を救い、衛生教育にも熱心だったことから、村人から非常に尊敬を集めました。
しかし、台湾総督府が新たな税金を設けたことで、村人の生活はますます困窮したため、森川巡査は県庁に税金減免を求めましたが、その願いは聞き入れられず、むしろ処分を受けてしまいます。村人の力になれなかったことに責任を感じた森川巡査は、銃で自害しました。村人たちはその死を大変嘆きました。
その後、村に疫病が流行した際、森川巡査が村長の夢枕に立ち、「水と衛生に注意すれば疫病は広がらない」とアドバイスし、そのとおり行ったところ伝染病が収束したと語り継がれています。今では「義愛公」と呼ばれ、土地神様として祀られています。
また、広枝音右衛門という海軍巡査は、2000人の台湾人部隊を統括していた指揮官でした。派遣先のフィリピンで戦況が悪くなったとき、彼は「此の期に及び玉砕するは真に犬死に如かず。君達は父母兄弟の待つ主地台湾へ生還しその再建に努めよ。責任は此の隊長が執る」と言い、部下である台湾人兵士の多くを無事に帰国させ、自身は指揮官としての責任を背負って現地で自害しました。彼の偉業は日台で今でも語り継がれています。